2017-06

神様にこうべを垂れる

スマホを機種変して以来、いろいろな事務手続き上のメールが来る。
どうでもいいような内容だけど、さも重要そうに書かれていて、
なんかすごく面倒くさい。きっと一切無視しても何も困らないのだけど、
いちいち確認してしまうのは、きっと「スマホという病」なんだろうな。

子供の頃には、ネットという世界はありませんでした。
SF小説の中にも登場しなかった。
たとえば火星にはタコのような火星人がいるとか、
海底には人類の知らない世界が築かれているとか、
そういうのは描かれていました。
そしてそれらは、科学が進めば真実かどうかが判明する空想の物語。
空想と科学とは、根っこのところがつながっているもの、
それが大前提だということを子供心に知っていた気がします。

ところが、ネットというものは誰も想像しなかった。
いや、「未来世界では個人がコンピュータを所有する」
みたいなSFはいくらでも存在した。
しかしネットという「もうひとつの現実世界」の出現は、
おそらく誰も予想しなかったのではないかと思うのです。

いや、フィリップ・K・ディックやギブスンのSFには
それらしきものが描かれているのかもしれない。
しかし、ネットという仮想現実が人間の生活や精神に、
どんな影響を及ぼすかを想像した人は、もしかしたら、
ほとんどいなかったのではないかな。

TwitterやFacebookや、ぼくの知らないアレやコレやが、
人間の在り方にどんな影を落としているのか、
今、まさにぼくたちは、試されようとしている気がします。
少なくともネットだけは、人間の想像力を追い越してしまったような……

朝、満員電車に乗って仕事に行きます。
ビッシリとすし詰め状態の電車の中でも、
多くの人がうつむいてスマホを見ている。
その光景は、なんだか不思議です。
まるで宗教のよう。神に向かってこうべを垂れる信者のよう。

……などということを考えながら『孤独の観察』の稽古しています。

初日は7月12日。
あ、もう1か月切ったんですね。




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2017年現在の孤独の形

どんな仕事をしていても昼休みは貴重な読書時間。
ロッカールームの片隅に座って読んでたこともあるし、
汗臭い仮眠室の隅っこで小さくなって読んでたこともある。
肉体労働やってたときは、ほこり臭い現場の片隅の板に座って読んでた。
でもって、今は、公園のベンチ。大勢のサラリーマンに囲まれて、
ベンチに腰かけて文庫本を開く。陽射しがきついし、
雨が降ったらどうなるんだろう?なんて思うけど、
まあ、野外で読むのもいいね。

バイトが変わって今は18階で働いています。
空がよく見える。雲の形もはっきりわかる。
ああ、空のどのへんに風が吹いてるなあ、とか。
本当は高所恐怖症ですが、でもまあ、これも悪くないや。

新しい仕事で慌ただしい毎日ですが、
稽古も着々と進んでいます。
みんなこの脚本をどう思ってるのだろう?などと思いながら、
でも、自分の役と真摯に向き合ってる様子を見て、
本当にありがたいなあと感謝しています。

『孤独の観察』というタイトルですが、
人間の「孤独」は、きっと時代によって違う。
孤独というものの在り方、状況には、その時代色が反映される。
その時代を人がどう生きたか?によって、
孤独の在り方も異なる。

2017年現在の孤独の形は?
そんなことを思いながら書いた脚本です。

求めてもいないのに与えられてしまった孤独、
自分からすすんで求めた孤独、
ひとつの生き方として選んだ孤独、
いろいろな孤独の形を思いながら、稽古しています。

たんに、物理的にひとりぼっちになった状態をさすのではなく、
他人と一緒にいるからこそ感じる孤独もあるし、
群衆の中の孤独、という言い方もする。

自分たちの孤独の形を思い返しながら観ていただくのも、
ひとつの楽しみ方かと思います。
本番まで、ちょうど1か月、7月の今日は初日です。






何もない、何もない、何もない

ただもうやみくもに歩きたい、
どこまでもどこまでもズンズン歩きたい、
などという根拠のない願望に押し出されるようにして
とりあえず外に出てはみても、
「ああ、あれやらなきゃ、これもやらなきゃ」とアレコレ思い出し、
中途半端な距離のところで戻ってきてしまう、
ぼくはクソッタレな人間です。

すべてを捨てるなら、今まさにその瞬間だ、
などと思うのだが、捨て去る勇気がない。

今一番やらなきゃならないのは脚本の続きを書くことだが、
どうしても指が動かない。
バイトがかわってハードな毎日が続き、ライター仕事もあり、
貧しい食生活と睡眠時間のために貧血気味で、
ただ追い詰められているだけの毎日………というのは、ただの言い訳で、
何を置いても真っ先に脚本を最後まで書きあげなきゃというのは百も承知。
しかし頭の中に重い暗幕が垂れ下がってるようで何も進まない。

とりあえずレッドブルを飲もう。

ああ、この胃腸のいやーな違和感は何だろう。
何かを飲み込んだかのような、重み。
いっそのことスッと安楽死でもしないかな、とも思うのですが、
神様はきっと「お前は、こんなふうにして人生の最期を迎えるのだよ」
と思い知らせてやろうと手ぐすね引いて待ってるのだろう。
パタンと倒れて自分でも気づかないうちに死ぬ、というのは無理なのかな。
悪趣味だよね、神様。

ついこの前までは手術室で他人の血液ばかり見て仕事していましたが、
今はビルの18階から、空と、東京の風景を見ながら仕事しています。
飛び降りる度胸もありません。

誰かおいらに、一丁のピストルを。

せめて、この不愉快な胃腸を全摘出してください。













ブルーホエールのこと

ブルーホエールと聞いて、最初は牧歌的なゲームかと思いました。
しかし全然違うらしい。ロシアで密かに流行している恐ろしいゲームです。
鯨には自分から浜に乗り上げて「自殺」する習性があるそうですが、
ブルーホエールは、そこから名づけられたらしい。

ネット上のゲームで、ルールはシンプル。
参加者は「毎日ホラー映画を見る」「毎日4時20分に起きる」など、
意味があるのかないのかわからない任務を確実に遂行していく。
中には「太腿にナイフで傷をつける」などの過激な任務もあるらしいが、
参加者は素直にそれを守るらしい。

そして、与えられた任務を確実に遂行し続けて50日目、
最後の任務が下される。それが「自分から命を絶て」。
つまり自殺を促すわけです。

まさかそれで本当に自殺する人もいないだろうと思うのですが、
実際にロシアでは130人のティーンズが自殺しているそうです。

そもそも、これらの情報がどこまで真実かわからないし、
自殺者の数も本当かどうか確かめようがない、
もっと増えてるかもしれない。
これらはあくまでもネットの情報です。デマかもしれません。

しかし、これが実話かどうかはべつにしても、
実際にあってもおかしくない話のような気がします。
一体だれが命令を下しているのか知りませんが、
最初は簡単に遂行できる任務から始まれば、
だんだん遂行すること自体が快感になり、やめられなくなり、
何かにとらえられたかのような感覚になり、
そして最後の「自殺しろ」という任務に対しても、
何の疑問も抱かなくなる……

人間の習性というか本能というか、
それをうまくついているゲームなのかもしれません。
いや、それにしても、もし本当に自殺者が出ているとしたら……

最後が自殺であるというのが、むしろひとつの「魅惑」なのかもしれません。
潜在的に自殺願望を持っていても、実際に自殺する勇気のない人が、
このゲームによって自分を少しずつ追い込んでいき、
あたかもゲームの結果として自殺を選んだかのように死ぬ。
そういう一種の「壮大な言い訳」なのかもしれません。

あるいは「ロシア」というのが、ひとつのミソで、
まるで一種のイデオロギーや社会体制が人々を侵食していく、
そのメタファーとして生み出されたゲームなのかもしれない……
などと、いろいろな想像がふくらみます。

いずれにしても確かなことは、
ネットという「もうひとつのリアル」が存在するからこそ、
広がっているゲームだということです。
ネットの奥底にひそむ得体のしれないリアリズムから下される任務、
ゲームの参加者は、そこに「もうひとつのリアル」を感じて従う。
というか、そこに自分自身のリアルを感じてしまう。

なんだか、ネット社会の落とし穴の恐怖を感じさせるゲームです。
このゲームの最後に自殺した人にとって、
自分が死ぬことは、あくまでも「ゲームの結果」でしかなかったのか、
それとも、その瞬間「あ、死ぬことは、本当に本当のリアルなんだ!」と気づくのか。
できることなら、質問してみたいです。

ネットの情報では、ロシア発祥のこのゲームが、
今は中国で拡大しているとか。
これも本当の話かどうかわかりません。

しかし、ブルーホエールに妙なリアリティを感じてしまうのは、
どうしてだろう。「あってもおかしくない」と思う、この感覚。
ネットには、そういうところがあるような気がします。

そして、そこからひるがえり、人間にとってのリアルとは何ぞや?
みたいなことを、あらためて考えさせてくれる話です。
ブルーホエール、いずれは日本にも上陸するのだろうか?

ときどき検索してみようと思っています。









「ビフォー」と「アフター」

「スマホの限界を試す」と周囲に宣言して、
もう限界も限界、かなりボロボロになるまで使い果たしたスマホが、
いよいよ「もはやこれまで」という状態になったので、
ついに3年半ぶりに機種変しました。

店員さんと向き合ってあれやこれや質問されたり説明を聞いたり、
なんのかんので新しいスマホを手にするまで約2時間。
はー、長かったなあ。

今稽古している『孤独の観察』は、12年前に起こったある出来事を、
当時クラスメイトだった男女が振り返るという物語なのですが、
みんなで12年前のことをあれこれ話しているうちに気がついた、
12年前にはまだスマホは存在していなかったのですね。

12年前には存在していなかったモノが、今は当たり前のように使われる。
じつは、同じ座組みの役者さんたちはグループLINEでつながっているので、
スマホは必需品。あー、いつの間にこうなったのか?

いやいや、そればかりではない、
携帯やPCが存在しなかった時代だって知ってるぼくとしては、
「じつはそんなものが無くても、人は生きていけるんだけどね」
などと年寄りじみたことも、つい言いたくなります。
言いたくなるけど、結局はそれが無ければ生活が不便、
そんなスタイルに巻き込まれてしまっている。

「当たり前のこと」というのは、時代によって変化する。
いや、時代によってどころか、毎年のように変化する「当たり前」。
それを目の当たりにしながら、「いや、こんなものがなくても、
人は生きていけるんだけどね」とボソリとつぶやいてみる。

などと言いながら、新しいスマホは文字が読みやすくて気持ちいい。
前のは画面がズタズタで文字が読みにくかったもんなあ。

ところで、ネット社会の出現で、人と人との距離感は確実に変わった。
……ような気がします。じつは、その部分の変化が重大。
「道具」としてのスマホよりもね。そう思います。

じつは『孤独の観察』は、そんなことを背景にした物語です。
シアターノーチラスの芝居で、スマホやネットなんてものが
大きな役割を果たすのは、多分初めて。
恐らくそこには、「ネット社会以前」を知っている者の感覚が、
どこかに関わっていると思います。

「ビフォー」と「アフター」で何が変化したのか?
そんなところから考えた物語です。
ネット社会の真っただ中で生きる人たちに、
ぜひ見ていただきたい芝居です。

毎度のことながら、にぎやかな稽古場です。
暗くて重い芝居なのに、稽古場はいつも明るい。
いや、重い芝居だからこそ、せめて稽古場は…てことなのかな?
どんな芝居に仕上がるのか、とても楽しみです。

初日は7月12日です。







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Author:TheaterNautilus
シアターノーチラス代表によるブログです。
前向きに更新します。

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