2017-05

真夜中に雨の音

買ってきたばかりの卵を床に落として割ってしまうという、
サザエさんでもやらないような凡ミスを犯してしまい、
夕食がずいぶんつつましくなってしまいました。
最近、胃腸が疲れているから、その方がいいのかも知れないけど。

この胃腸の違和感は何だろうな。睡眠不足か心理的疲労か。
いっそのこと地球外生命体が卵を産み付けたとか、
肉体の一部が化石化し始めたとか、
そういうアレなら、まだ面白いんだけどな。
あるいは、次に書く物語の「芽」とかね。

真夜中に雨の音を聞いていると、いろいろなことを思い出します。
何だろう、この雨音効果。
何かの記憶を確かめさせるために、
神様がわざと降らせているのではないかと思うような、雨。

ここ数年の間に亡くなった知り合いや肉親のことを思い出したり、
故郷の、自分が生まれ育った家のことを思い出したり、
そんな記憶をたどっていると、どんどん時間が過ぎていきます。
ああ、もうこんな時間なんですね。

時間が流れる音って、どんな音なんだろう。
チクタク…は時計の秒針の音だから、時間が流れる音ではない。
サラサラ? ふるふる? きりきり?

そもそも、「時間が流れる」という言い方は、なぜできたのだろう?
「流れる」ということは、時間というのは、液体みたいなもの?
それとも砂時計の砂のようなもの?
時間とは、液体なのか? 固体なのか? もしかしたら気体?

……などということをボンヤリ考えている。
時間が流れる、時が流れる。やっぱり液体?
人間はその流れに身を任せて、一緒に流れているのだろうか?
そして時々、その流れに溺れそうになったり、実際に溺れたり。

少なくとも、両手ですくいとることができるようなもの、
そして、指の間からすり抜けて、こぼれていくようなもの。
それが「時間」のような気がします。
こぼれおちた時間は、もう2度とすくいとれない。

眠れないと、いろいろ不健全なことを考えますな。











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言葉が通じない、意思が伝わらない

NHKのSWITCHインタビューで、この前、
生命科学者の柳澤桂子さんとバリアフリー研究者の福島智さんが
対談していました。柳沢さんは若い頃から病気で寝たきり、
福島さんは幼い頃から目と耳が不自由。
そんなふたりが生命や心の不思議について語ります。

東京大学で教えている福島さんは、
「指点字」という独特の方法で人と会話をする。
あらかじめルールとして点字の6個の穴と指の6本を対応させておき、
通訳者がどの指を触れるかによって言葉を伝える。
この方法で福島さんは人と会話するし大学の講義も行います。

どんな人間でも、なんとかして人とコミュニケーションをとりたいと思ったら、
その手段は必ず存在するし、コミュニケーションは可能なのだ。
快活に「会話」する福島さんを見ていると、そう思います。

最近、人とコミュニケーションがとれなくて苦しんでいます。
長い付き合いの人なのだし、むしろ「ツーカーの仲」でもいいはずなのに、
言葉が通じない、意思の疎通ができない。
必ず、どちらかが誤解や勘違いをして、意味もなく怒ったり、
イライラしたり、過剰防衛したり、もうムチャクチャ。
その結果、会話は予想もしなかった方向に展開し、
イヤな感情とむなしい疲労だけが残る。その繰り返し。

なぜこうなるのだろう?と考えていて思ったのは、
あまりにもメールやLINEに頼りきってるからではないか?
顔を見て肉声で話すのではなく、スマホの画面でやりとりする。
そこに、行き違いや誤解が生まれる理由がある気がします。

相手から送られてきた文面をスマホの画面で読むとき、
自分の感じた読み方で読む。たとえば「怒ってる文面」とか、
「暗に何かを要求してる文面」とか「本当はイヤイヤ書いてる文面」とか……
いや、書いてる方の人間は、そんなことまったく思ってなくて、
ごくごく平常心でサラッと書いただけなのに、
読み手は、自分の先入観やその時の気分で読んでしまう。

もともとぼくは人の言葉を正しく読み取ることがヘタなので、
よくそういう誤りを犯します。
他人の言葉を曲解したり、勘違いしたりして、
過剰反応してしまうことで、信頼を失ったことが何度も何度もあります。

そんな「読み違い」をお互いに繰り返すから、
結局、伝えたいことは伝わらず、誤解が誤解を生みだし、
話は、不穏な空気に包まれ、険悪な関係になってしまう。
そんなことが積み重なり、ほとほと疲れ果てています。
相手の誤解に。自分の誤解に。

メールでもLINEでも、結局のところ、
それを書いた人間の気持ちではなくて、
「それを読む人の側に合わせて読まれてしまう」。
書いた側のものではなく、読んだ側のものになってしまう。

ネットというものが発達して、気軽に言葉を発信できるようになり、
人と人との関係が「密」になっているように見えます。
しかし、画面に言葉が並んだだけのコミュニケーションでは、
実際には誤解や勘違いが生まれることも珍しくなく、
じつはコミュニケーションなんてまったくとれていない、
……などということも、あるのではないかと思います。

「ネットが人間同士の距離を縮めた」なんて、じつは錯覚。思い込み。
ただそう見えるだけで、じつは全然近づいてない。
最近、つくづくそう思います。深く深く実感しています。
いやいやいや、何なんだろうな、この世界は。

そして今度の『孤独の観察』にも、そんなことが出てきます。
今のこんな時代だからこその「孤独」について考えながら作っています。
そんな物語です。

ちなみに、福島さんが「会話」のために利用している「指点字」という方法は、
「なんとかして息子とコミュニケーションとりたい」と考えた、
福島さんのお母さんが考案したものだそうです。

なんとかしてコミュニケーションとりたい!
人に伝えたい!
人から伝えられたい!

その単純素朴な望みを実際にかなえるのは本当に難しい時代。
なんとかしなきゃとジタバタもがいています。








配役を発表しました

東京は小さな「孤独」が集まってできている街、
というイメージは、初めて東京で暮らし始めた時から、
ずっとしみついています。

電車や少し高い建物に上がって見える景色を目にすると、
とくにそのことを感じます。

ずっと隣りにいた人がある日突然いなくなったり、
昨日は同じ夢を追っていた人が今日は去っていたり、
そんなことが日常茶飯事に起こる街。

そんな街に長い間暮らしてきて自分の体にしみついたものを、
ひとつずつ剥がすようにしながら書いてるのが、
今度の『孤独の観察』です。

昨夜の稽古で配役が決まり、稽古場の空気が変わりました。
帰りの電車の中で、役者さんたちの顔が、
とても微妙な表情を浮かべていました。
配役を発表した後は、たいていいつもそうです。

「まさかこの役とは…」「あー、これだけはやりたくなかった…」
「相手役はあの人か…」などといろいろな思いがあって、
どっちつかずの顔をしている役者さんたち。それを横目で見ながら、
ぼくはシレッとした顔で電車の外の景色を眺めています。

これからみんな、自分の役と向き合いながら、
ひとりひとり孤独な葛藤を始めるんだなあと思いながら、
ぼくはただ祈るような気持ちでいます。

「自分ではない別の人間を演じる」ということは、
しかし同時に「自分自身と向き合い、見直してみる」ということでもあり、
その、一見、まったく相反するようにも見える微妙な行為が、
きっと役者というものの面白さなのでしょう。

同時に、ぼく自身も、今回はとくに自分自身と、
とことん向き合わなければならない芝居になりそうです。

『孤独の観察』、初日は7月12日です。






どうということもなく

電車で女子校生がエラリー・クイーンの『ローマ帽子の謎』を読んでた。
ちょっとうれしくなりました。……って余計なお世話だけど。

でも「国名シリーズの中でそれは何番目に読むのだろう?」
「もしデビュー作だからという理由でローマ帽子から読んでるとしたら、
それはあまり良い順番ではないよなあ」とか、
「ギリシャ棺かオランダ靴から読み始めたほうがいいのになあ」とか、
それこそ余計なお世話が頭の中にビッシリ。

こんなとき、耳元で「犯人の名前はね……」なんてボソリとささやいたら、
一体どうなるんだろう。大騒ぎになるのかな。

中学時代、翻訳ミステリー好きの友達3人の間で、
先に読んだミステリーの犯人を、まだ読んでない人にこっそり教えるという、
かなり悪質で悪趣味な遊びが流行ってました。
いやな中学生だったなあ(笑)。

ちなみに国名シリーズの中でおいらのオススメは、
やはり『エジプト十字架の謎』です。必読。

昨日はちょっと遠くまで芝居を観にいき、
さらにDVDで別の芝居を鑑賞。
煮詰まった頭に良い刺激をもらいました。

じわじわと会話が積み重なっていき少しずつ人物が見えてくる。
書いてると、「あー、早く役者さんの声で聴いてみたい」
そう思って、そわそわします。
やっぱりセリフというのは声と対になってるものです。
肉声が聴きたくなる。

あ、コリッチにチラシも掲載されました。
よかったら見てください。
さて、これからちょっとBOOK OFFにいってきます。







理由など、いらないのだけど

村上春樹の古ーいあの小説が読みたいけど、
そううまいこと古本屋にあったりしないだろうなあと
まったく期待しないで出かけていったら、
まさにその村上春樹の古ーい小説があった。
しかもその古本屋で村上春樹の小説は、それだけ。
ピンポイントで探していた小説が、さほど大きくない古本屋で見つかる、
それはもう、運命みたいなものではありませぬか。

Twitterか何かで、自分の子供に「どうして本を読むの?
本を読むとどんないいことがあるの?」と質問された母親の返答が、
話題になってるそうですね。詳しくは知らないのですが……
母親は何と答えたのだろう、気になります。

女優の蒼井優は舞台で共演した渡辺えりに、
「役者たるもの、たくさん本を読まなきゃだめですよ」と言ったそうです。
ほとんど本を読まない渡辺えりは苦笑いしていました。

ぼくはべつに人に「本を読んだほうがいいよ」なんて言いませんが、
ただ、役者さんには、たまに「役者やるなら、読書したほうがいい」と
偉そうに言ったりします。まあ、余計なお世話と思いつつ。

ただ、だからといって「どうして読書したほうがいいのか?」と質問されたら、
正直ちょっと困る。あまり良い返事が浮かばない。
「そうか、だったら、頑張って読書しますね!」と言ってもらえるような、
そんな「読書の理由」があればいいのだけど……思いつきません。

思いつかないけど、それでもやはり、「役者」というものをやる以上は、
役者には「本を読む」ことが不可欠だと信じています。

いろいろな人間が、いろいろな環境の中で、いろいろな生き方・考え方をする。
それを知るためだけにでも、読書ほど有効なものはない。
「他者を演じる」のが仕事の役者ですが、
しかしひとりの人間の想像力では計り知れないものが、人間にはある。

たとえば「この人は、このとき、なぜこんな言葉を言うのか?」という疑問は、
その疑問が浮かんだ時点ですでにその役者の想像力を超えているわけです。
そんなとき、いかなる演技テクニックも役に立たない。
かろうじて役に立つもののひとつが、積み重ねてきた読書体験です。

いや、べつに具体的に「あの小説の、あの登場人物が…」なんていうのではない。
読書を通して「人間は、自分の想像力を超えた存在である」
ということを知ってるだけでも、全然違う。役との向き合い方が。

役を受け止めるときの、役者の心身の自由さと柔軟性を育てるために、
本を読むことは、とても大切なことだと思います。

……なんてことを、いくら言ったところで、本を読まない人は絶対に読みません。
読書というのは習慣性のものだから、まあ、今さら言っても……てことですかね。
それでもやはり、芝居やる人は、読書したほうがいい、心底そう思います。

ただ、最近はこうも思います。
「人間を知るために読書をする」のではない、
「人間というものに本当に興味があれば、ほっといても勝手に読書するものだ」。
人間が好きなら、人間を知りたいと思うなら、自然に本を読むのだろうと。

そして、役者というものも、「人間が好き」「人間に興味がある」が根本である。
だから、もう自然の摂理として、「役者は読書するものだ」ということになる。

いろいろな劇団に出演して舞台経験を増やすのもいいし、
演技の学校に行くのもいい、べつにそれらも大切だけど、
でも読書するという体験をないがしろにしたら、
何を積み上げても何も積み上がらないような気がします。

といっても、それはべつに、「読書も大切な勉強だから」という理由ではない。
その人には根本的な「人間への興味」が薄いような気がするからです。
素朴な意味での、純粋な意味での、人間への興味、好奇心、
それが「演じる」ことの出発点だと思います。

こんなことをつらつら書くのは、
最近、脚本を書きながら「なぜ書いてるのだろう?」とよく思うからです。

そして、めぐりめぐってたどり着くのは、
「結局、なんのかんの言っても、人間が好き、人間に興味あるから」
というところに落ち着きます。
要するにそこなんだなあ、と思うと、また新しい気持ちで脚本に向かえます。

そして今回も、そんな気持ちで書いています。
「孤独の観察」、楽しみにしていてください。





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