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2018-08

信じないのはよくないが信じ過ぎるのも危険

NHK教育テレビの「昔話法廷」の新シリーズやってますが、
やっぱりなかなかよく出来てます。
今日は、録画してあった「赤ずきん」を見てました。

赤ずきんがオオカミのお腹の中に石を詰め込んで溺死させた「猟奇的殺人」、
これは心神喪失状態で行われた犯行か否か?が裁判の焦点。
なかなか微妙な議論です。そのときの赤ずきんの心理状態を探るのだから。

法廷には、オオカミのお腹に入れられたのと同じ量の石が持ち込まれ、
その犯行の異常さが強調されたりします。

検察は吉田羊、弁護人は竹中直人なのですが、
それに加えて赤ずきんを演じているのが佐藤玲、
そうです、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』の中で、
池松壮亮にいきなり電話かけてきて再会した高校時代の同級生の子。

あの子が赤ずきんやると、証言がすべて嘘っぽく聞こえる(笑)。
1本の映画の影響力というかイメージは、なかなか大きいですなあ。

まあ、いつものように結論は出ません。
この番組をもとに教室でどんな議論がされているのか、聞いてみたいものです。

さて、昨夜ちょっと気になることがあったので書き残しておこうと思います。
Twitterを見ていたら、「自分の娘がいなくなった、多分●●という男と一緒のはず。
もし見かけたら連絡してほしい」というツイートが流れてきました。

その子の「親」が書き込みしているらしく、行方不明の子の写真や特徴、
そして、届け出たという警察の電話番号が書き込まれていました。
もちろん、大勢の人がリツイートして捜査協力していました。

しかし、ちょっとへんだなあと思うこともありました。
行方不明の娘を探している親だというわりには、その娘の名前も書かれていない、
警察の電話番号も、他の人に「掲載したほうがいい」と促されて、やっと掲載、
そして何よりも文章が、娘を心配している親の書き込みとは思えないほど稚拙。

なんだかへんな感じがしたので、ぼくはリツートしなかったのですが、
他にも同じような疑いを持った人がいたようで、
「こういう書き込みをしている人物が、じつはストーカーということもあります」
みたいな、ちょっと牽制するような書き込みもありました。

この出来事についてのツートは、今日はもう見当たらないので、
その後どうなったかわかりません。おかしな事件に発展しなければいいなと思います。

Twitterというのは本当にいろんなことに悪用される可能性を秘めています。
やろうと思えば、匿名で書き込むこともできるものだから、
何らかの犯罪に利用されることもあると思います。
悪意はなくても、間違った書き込みをして、それが意外な結果を生むこともあるでしょう。
なんか怖いなあと思います。

そうかと思えば、関西で死体が発見された女性の事件がありますが、
生前、Twitterでストーカー被害について訴えていたそうで、
この場合は、もしかしたらTwitterが犯人の絞り込みの手助けになるかもしれません。

どう使うかによって、便利な道具にもなるし、悪用されることもある。
当たり前のことですが、新しいものが生まれたとき、重要なのは、
それを使う人間の良識だということなのでしょうか。
Twitterとは、場合によっては恐ろしい凶器、あるいは犯罪の「共犯者」になり得る、
とも言えるのでしょう。

この前、お母さんの自転車の後ろのチャイルドシートに乗ってた4、5歳の女の子が、
当たり前のようにタブレットを持って、人差し指で操作していました。
けっこう衝撃的な光景でした。

ここ数年に生まれてきた人たちにとって、ネット社会は、もはや空気のようなもの。
おそらく頭の中の構造や考え方も、まったく新しいのだと思います。
もしかしたら人間という「種」が、少しずつ変化し始めているかもしれません。

せめて、いろいろなものを安全に良識的に使いこなせるように、
ぼくは必死でしがみつき、ついていきます(笑)。



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「当事者」ではなく「当事者ではない人々」だから

最初の週末稽古が終わり、久しぶりに夜11時頃帰宅して、
ああ、またこの生活が始まる…と感慨にふけって夜更かし。
張りつめた2か月間のスタートです。

今朝は少し遅めに起きたのですが、ネットを見ていたら、
江川紹子さんの発言が紹介されていました。

オウム幹部の死刑が執行されたことに対して、
「なぜあんな事件が起こったのか、まだすべて解明されたわけじゃないのに、
死刑執行により、謎が残されたままになってしまった」という一部の批判。
それに対して江川さんは、それは違うとハッキリ断言しています。

金と時間を十分にかけた捜査と裁判によって、解明されるべきものは解明された。
その事実を認めずに、「この事件の謎は永遠に解けないままだ」と
無責任で感傷的な言葉を口にするメディアや一部の識者に対して、
そういう言い方はおかしい……というのが江川さんの考え方です。

ぼくもずっと同じようなことを感じていたので、これを読んで、
まさにその通りだと思いました。
死刑制度そのものの是非はここでは触れませんが、
死刑になったからといって「謎は残されたままだ」と言ってしまうことに、
とても安易な感傷を感じてしまいます。

もちろん100%解明されたわけではないでしょう。実際、残された謎はあると思います。
しかし、だからといって「100%解決するまで死刑は執行しない」となれば、
それこそ永遠に執行されないことになるでしょう。

「これ以上は、もう何も出てこない」というところまで来たら、
今度は、オウム側の問題ではなく、オウムを取り巻くこの社会の側の問題、
なぜこの社会がオウムを生み出したか?の問題のような気がします。
「オウム以外」の人々について考える番になったのだと思います。
江川紹子さんの考え方に「なるほど」と納得しました。

ちょっと飛躍しますが、これを読んで思い出したことがあります。
少年Aの『絶歌』が出版されたときのことです。
あのとき、世の中には「こんなもの絶対に読むもんか!」という批判が起こりました。
また、読んだ人からは「弁解と保身に満ちた自己弁護」として糾弾されました。

あのとき「こんなものは絶対に読まない」という風潮に、とても違和感を感じました。
あの事件が起こったとき、多くの人々が「なぜ、こんなことをしたのか?」
「なぜ、こんな事件が起こったのか?」を知りたがりました。

それから数年後に犯人が書いた『絶歌』は、その謎を知りたいと思った人にとって、
とても重要な手がかりになったはずです。
たとえそれが「弁解と保身に満ちた自己弁護」であったとしても、
そこから一歩引いて「なぜ今も、こんな気持ちでいるのか?」を考える、
それが、あの事件の謎と向き合うことだったと思うのです。

だから、あの本を「絶対に読まない」と断言する人たちは、
あの事件の謎と向き合うことを拒否してることになるのでは?と感じていました。
「あの少年のことを、みんなあんなに知りたがっていたのに、どうして読まないの?」
ずっとそう感じてしました。なんといってもあの本は、
「少年A」から「少年A以外の人々」に向けられた重大な手がかりだったのだから。

今朝のオウム幹部死刑に対する江川さんの考え方を読んで、
そのときのことを思い出しました。
人間は、犯罪や犯罪者に対して、理性的に向き合う部分がある一方で、
感情的・情緒的にとらえてしまうところがある。

そのどちらが勝ってもならない、ちょうどいいバランスでとらえないと、
本当のことがなかなか見えてこない。多分。
そして、「オウム」に対して「オウムを生んだ社会に属する人々」がいて、
「少年A」に対して「少年Aではない人々」がいる。
「それ以外」の人々のことを考えることも、また、
とても大切なんだろうなと思います。

どんな出来事であっても、それを他人事にしてはならない。
でも人間は、つい、「自分には関係ない、遠い世界で起こったこと」
そうとらえがちです。それは人間の「弱点」のような気がします。

今、稽古してる芝居にもちょっとだけ関係あることかもしれない、
そう思うので、書いておきます。

さて、本日は稽古場に利用料金の支払いに行ってきます。











地図の独白、あるいは舞台だからこそ出来ること

本と映画が大好きだった母親は、最後の入院生活をしているとき、
よくぼくに「あれを買ってきて」と本の注文をしました。
寝台からほとんど離れることができなかった母親は、
好きな本を読んで、それを脳内映画化するのが楽しみだったようです。

「今、井上靖の『しろばんば』を映画にしている」とか、
「次はクローニンの『城砦』を映画化するから買ってきて」とか。
もしかしたら作家か映画監督になりたかったのかもしれない母ですが、
元気なときは、1日中部屋にこもって、黙って和裁をしている生活でした。

そんな血を引いてるからというわけでもないだろうけど、
ぼくも面白い本を読むと、それを頭の中で「舞台化」します。

大好きな村上龍の『コインロッカーベイビーズ』は、
キャストを替えて(笑)、何度も舞台化しました。
ぜひバカでかい舞台でアンサンブルを100人くらいはお願いしたい。

マルケスの『百年の孤独』や、吉田知子の『お供え』なんかも、
ぜひ舞台化したいねえ。もう少し若い頃の白石加代子で『お供え』、
ああ、見たいねえ。今なら、誰が主役やるかなあ……なんて。

でも、中には、いくら面白くても舞台化が難しい小説もあって、
昨日読んでた平山夢明『独白するユニバーサル横メルカトル』という短編は、
なかなか舞台のイメージが湧いてこない。映像化なら、どうにかなるか?

短い小説だけど、一人称の「私」が、地図。
タクシーの運転手が助手席に置いてる道路地図の独白、という体裁なのだが、
この設定の面白さを表現するにはどうすればいいか?

まさか役者が地図の着ぐるみを着るわけにもいかないし(笑)、
そう、昔『ウゴウゴルーガ』でやってた『ももいろぞうさん』みたいな?
いやいや、あれはいかんでしょう。『ももいろぞうさん』は好きだったけどね。

なんか、こういう、舞台化も映像化もしにくい小説に出会うと、
それこそ「文字と言葉だけが可能な表現と面白さ」なんだろうなあと思います。

小説だからこその面白さ、
舞台だからこその面白さ、
映画だからこその面白さ、
それぞれの面白さがあって、それらはけっして越境しない、
そのことを、ときどき考えます。

ノーチラスの芝居はときどき「小説を読むみたいな…」と言われます。
もちろん、いい意味で言っていただくのですが、
その一方で、「舞台だけにしかできない見せ方」というものにもこだわりたい、
そうも思うのです。舞台だからこそできること、舞台以外ではできないこと、
それは、かなり難しい課題です。

今度の芝居は、いつもより少しだけ、そのことに踏み込んでると思います。
舞台でなければできないことをやろう。
「いつもとはちょっと違う芝居」、そう思われたい。

『となりの事件』、本格的に稽古が始まりました。
初日は10月10日です。







長い長い下り坂をゆっくり下りている

ちょっと近所に買い物に行くだけで全身汗まみれになり、
体の中まで熱い空気で満たされるような感じがします。
この世はどうなるのだろう、と思います。

「温暖化」という言葉で検索すると、
温暖化のメカニズムやその影響を詳しく説明してるサイトがたくさん出てくる一方で、
温暖化なんてじつはウソ、科学的根拠は一切ない、というサイトまで
いろいろ出てきます。どれが本当なのか素人にはわかりません。

しかし、毎日この暑さに直面し、それが日本だけではなく、
世界的にも同じような高温が続いてるというニュースを見ると、
やはり地球的規模で何か異変が起こってるんだろうなと感じます。

地球上に現れた数多くの生物のひとつに過ぎない人類は、
当然いつかは滅びるものだと思いますが、
その時期は案外早いのかもしれない、なんて、つい考えてしまいます。

そして、その後の地球には、今の厳しい環境を生き抜いた、
または厳しい環境から生まれた、まったく新しい生物が繁栄する、
そのことがすごくリアルに感じられます。

最近あちこちで海岸にクジラが打ち上げられるニュースが続いています。
東京湾に迷い込んだクジラもいました。
打ち上げられたクジラの死骸、というのは、
なんだか世界の終末にふさわしい光景のようにも思えます。
何かの警告なんじゃないか?

なんかね、最近、ニュースやワイドショーが扱うニュースが、
本当にどうでもいいことのように思えてしかたない。
事件や騒動を起こす人間も本当にどうでもいいやって感じだけど、
それを報道してるほうも「もうそのへんでいいじゃん」て感じです。

そんな報道するよりも、毎日ゴールデンタイムに、ほんの30分だけ、
今、地球に何が起こっているか?についてじっくり解説する番組を
全世界でやってみてはどうだろう。
それで何かが変わらないだろうか?変化しないかな?

まあ、きっと変わらないんだろうな。
というか、この流れは、もはやどうにもできないのかな。
人類は滅亡への長い長い下り坂を下り始めてるんでしょうかね。
人類だけならまだしも、他の生物や地球という星そのものを、
巻き添えにしないでほしい。せめて。

他の生物たちから、人類に対して、
「滅びるなら、自分たちだけで勝手に滅んでくれよな。
こっちまで巻き添えを食うのは、まっぴらごめんだぜ」
というメッセージが届いてませんか?

なんてことを考えながら、野良猫ソワレにごはんを届ける昼下がり。








ふだんは猫派なのに、読書では犬派なんですよね

昨夜NHKでサザンオールスターズ40周年の特番やってて、
それを録画したのをさっき食事しながら観てました。
昔の曲を聴くと、いろんなことが思い出されて、
つい、遠い目になります(笑)。

この前、大学時代の親友の荒井君と食事したときに話に出たのだけど、
学生時代、いろんな出来事のバックにはいつも、
サザンと松任谷由実と大瀧詠一が流れていた。
好きとか嫌いとかではなくて、大学生活の定番のBGMでした。
そんな時代です。サザン、好きだったなあ。

荒井君とも話したのですが、松任谷由実の歌詞に触れたことは、
すごく大きな出来事だったと今でも思います。
ユーミンの音楽は今の10代20代にはまったくアピールしないだろうけど、
ぼくには大きなカルチャーショックでした。
小説や映画以外でぼくが大きな影響を受けたものは、
落語とユーミンの音楽だと思っています。

そんなわけで最近になって、また、サザン、ユーミン、大瀧詠一を
なんとなく聴き返しているのです。懐かしいなあ。おれ死ぬのかなあ。
まあ、それも悪くないのだけど。

さて、何を読んでますか。
ぼくは『ガルヴェイアスの犬』という小説を読んでます。
これ、原題は『ガルヴェイアス』だけなのに、
日本の出版社がわざわざ「の犬」をつけたらしい。
まあ別に文句は言わないけど、なんで?って思います。ま、いいか。

いや、本当のことを言うとですね、この「の犬」っていうがあるから、
この本を読もうと思ったのです。

この前読んだ松家仁之『光の犬』とかプッツァーティの『神を見た犬』とか、
犬がつく小説はなんか面白そう、という条件反射。パブロフの犬。
ふだんは、あきらかに猫派なのに、小説は犬派。なぜだ?

ポルトガルで高い評価を受けたポルトガル文学だそうですが、
全然知らない作家で、「???」て感じ。
でもふだんよく知らないポルトガルの現代史っていうのは惹かれるでしょ?
多分、一生行くことはないだろうけど、ポルトガル。

全然関係ないけど、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』が、
アメリカでTVドラマ化されたそうで、新たなヴォネガットブームが起こる気配とか。
きっと早川書房が新装版を出すような気がしますが……

『スローターハウス5』はジョージ・ロイ・ヒル監督の映画化作品を観ました。
すっごくヘンテコリンな映画だったとしか記憶にないのですが、
なぜ今これを?と思います。日本では観れないんですかね。

あー、ゴーヤチャンプルーでビール飲みたい気分。
そういえば、今週から始まった、教育テレビの「ざんねんないきもの」、
なかなか面白く作ってあります。
短い番組なので、ぜひどうぞ。オススメ。









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プロフィール

TheaterNautilus

Author:TheaterNautilus
シアターノーチラス代表・今村幸市によるブログです。
年に2~3回、オリジナルの脚本による芝居を上演しています。
次回公演は2018年10月です。
http://theaternautilus.
web.fc2.com/index.html

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