2017-04

今日もあっけないくらい空が高い

あんなにも人間を怖がっていた野良猫が、
最近はドアの外のお皿がカラッポだと、
「ひと声鳴く」というワザを覚えました。
変われば変わるものです。

稽古開始が近づいて、次は久々の下北沢だし、
ゆったりゆったりと心が盛り上がっていきます。
「心」なんて文字を書くのは正直なんだか照れくさい。
心はどこにあるのか? どんな形をしているのか?
なんてことを思ってるのも、やっぱり「心」だし。

毎日だれとも会話しないで時間が過ぎていく、
そんなふうに過ごしていると、心だけがポカンと浮いてくるみたいな、
自分の心を取り出して、はたから眺めてるみたいな、
そんな不思議な気分になります。

「ひとり」というのは、本当にとりとめのない時間の集積。
仕事の原稿にしても、脚本にしても、
「書く」というのは誰にも相談することのできない、
ポツンとした孤独な作業です。

もしも家族がいれば、ときどき全然無関係な会話でもして、
浮かび上がった心をキュッと自分の身体に引き戻す、
なんてこともできるのだろうけど、
ひとりで暮らしていると、心も野放しです。

あー、今日は一度も声を出さなかったなあと思いながら布団に入る。
夢の中でだれかと話をしてみるのだけど、
自分の声が自分の声ではないように聞こえて、
目が覚めてから、なんだか切ない気分。

「書く」という言葉は、「孤独と向き合う」というここと同義語。
最近はそのことを痛感する毎日です。

なんだか、何の見栄も飾りもない、
思ったことそのままのブログ書いてますね(笑)。
これでいいのか???
早く稽古が始まらないかな。

あー、でも、「書く」ことを選んだのは自分自身なんだから、
誰にも文句は言えないんだね。
自分に嘘つきたい。







スポンサーサイト

くもり空マチネ

脚本の参考にと思って図書館の本を何冊か読んでいるのですが、
ひどく重くて気が滅入る内容で、頭の中に何かが積もるみたいで、
なんでもいいからスッキリしたくて、
人気劇団の人気演目を観劇。

あらすじを読んで、ちょっと新鮮なアイデアだなーと思ったもので。
オリジナリティってものには、やはり単純に惹かれます。独創性。
良いか悪いかはどうでもよくて、大事なのは、新しいか否か?

そんなこと思いながら出かけたのだけど、
なんだか腑に落ちないというか、
心に入ってくるものが無くて、ずっと落ち着かなかったな。
こんなこともありますね。

頭スッキリしたいと思って観劇したのに、
かえってモヤモヤ(笑)。こんなこともありますね。

誰も考えたことのなかったことを考えるのは、
簡単そうに見えて、すごく大変だと思います。
というよりも、すべて「その一点」にかかってる。

「これ、どこかで見たなあ」とか「あれに似てるなあ」とか、
そう思われたらすべて終わり。ジ・エンド。
この恐怖とドキドキは、ものすごいストレスとプレッシャーです。

まわりはあまり分かってくれないけど(笑)、
脚本の1行、セリフのひとつを書くプレッシャーとエネルギーは、
多分、人が想像してるより何百倍も大きい。
あらゆる脚本書きの人たちは「うんうん」と納得してくれると思うけど。

それを感じさせる芝居に出会うと、つい引き込まれます。
必死になってひねり出した1行、それが伝わってくる芝居。
逆に、それが無いと、観劇していてもお尻が痛くなる。

もちろん、こんな産みの苦しみから出来上がった脚本と、
今度は役者さんが格闘してくれるわけで、
苦しみはいつも引き継がれていきます。

「おれ苦しんで書いたから、今度はみんなが苦しんで芝居にしてくれ」
これはけっして不当な要求ではないと思ってます。
てなことを思いながら帰宅。

雨の音を聞きながら、マチネにしといてよかった、
洗濯しなくてよかった、ペーパーフィルター買っといてよかった、
などなど、いろんな「よかった」が浮かんでくる。

雨が降っても、野良猫がごはん食べに来ますように。





たくさんの「ひとり」

ドアの外にキャットフードを置くようになり、
ときどき深夜なんかに野良猫が食べてる気配がします。

いつも敵意と警戒心の交じった顔をしてる野良猫、
人の気配がしただけで足早に逃げていくその猫が、
キャットフードを全部食べてくれると、すごくホッとする。
買い物リストにキャットフードが増えた今日この頃です。

7月公演の脚本を書いていて、
毎日いろんなメモやなぐり書きが増えていきます。

大きなスケッチブックを使ってわしわし書きまくるのですが、
全然つながりのない断片が、少しずつつながって物語になっていく、
昨日までこの世に存在しなかった物語が、今日は存在してる、
そのささやかな幸せというか充実感というか……
どんな言葉で説明すればいいのだろう。

昨夜とその前の夜と、なぜか眠れなくて、
夜中ずっと安倍公房の『人間そっくり』を読んでいたのだけど、
火星人なのか、自分を火星人と思い込んでる狂人なのか、
それとも火星人のフリして何かを企んでる地球人なのかエトセトラ、
なんかもう、わけのわからん相手と会話する主人公の苦悩が面白くて、
ますます眠れなくなる。その延々と続く螺旋の会話が快感です。

なぜ芝居をやるのだろう、なぜ芝居を面白いと思うのだろう、
公演を重ねるごとに、その単純素朴な疑問が深まっていきます。
ノーチラスの芝居は会話劇なので、
「会話」というものを磨く必要がある、それはわかる。
「会話」というものを成立させるためには人間の心理を理解する必要がある、
それもわかる。理屈ではわかる。わかっているのです。

でも、だからといって、たとえばTwitterでどこかの団体が、
「人間の心の働きはすべて説明できる」なんてつぶやいてるのを見ると、
どうしてもゾッとする、悪寒が走る、生理的にムリだと感じる。

たとえば、もしも人間同士が「相手の心をすべて解き明かしたい」と思い始めたら、
いや、そんな極端な話でなくてもいい、
役者というものや演技というものが、
「人間の心の働きはすべて解明できる」なんて考え方の上に成立するものなら、
演劇というものはひどく非人間的なもの、疑心暗鬼と自己欺瞞の世界、
そんなものになってしまう、あー、なんかうまく説明できないな。

少なくとも、人間が人間に求めているのは、そんなことじゃない。
いや百歩譲って、役者がひとつの「技術」としてそれを考えるのなら、
そういう考え方もあるのかもしれない。

しかし人間同士の関わり合いが、腹の探り合い、本心の探り合い、
本心を暴きさえすればそれでいい、みたいなことになるのは、
なんだか寒々としてしまう。それが続けば、人間はみんな、
いずれは「ひとり」になるだろう。心を閉じてしまうだろう。

たまたまTwitterで見たひとつの言葉から、
そんなことを思いました。そんなことを思いながら、
次の脚本を書いています。

最近、他人と関わり、会話することに、ちょっと臆病になっています。
会話が会話になってない、というのか、
無駄に緊張する、というのか、
自分が思ってるのとは、まったく異なる受け止め方をされて、
「え? いや、そんなことを言いたいんじゃないんだけどな…」

きっと自分も同じことをしているのだろう、
同じことをして他人を戸惑わせているのだろう、
会話不成立、もがいています。

自分の心を解明なんてされたくない。
でも逆に、僕自身は他人の心をもっと解明する努力をしたほうが
いいのでしょう、きっと。

自分のエゴイズムを見透かされたり、
相手の探るような目にいら立ったり、
結局は人間の関係は誤解の上に成り立ってると痛感したり。

しかしそれでも次の稽古は始まる。
脚本を書かなければならない。

たくさんの「ひとり」が集まったこの世界で、
一体なにができるのだろう。









どうしても避けてほしいこと

お久しぶりです。
世の中がなんだか不穏な空気に包まれていて、
ニュースを見てると「戦争は避けられない」みたいな方向に向かっていて、
ジワジワと、しかし確実に動いてるような気がしてきて、
何とかならないものかと思ったりする。

武力によって人命が奪われるような時代にだけはなってほしくない、
大勢の人が抱いてるその祈りが、何らかの力になって、
戦争だけは回避してほしいものだと思います。

「第4次世界大戦はあり得ない」とはアインシュタインの言葉ですが、
これは「もしも第3次世界大戦が起これば、間違いなく人類は滅びるから」
という意味。とりかえしのつかない事態にだけは、なってほしくない。

腹立たしいのは、今のこの危機的状況は、世界の「状況」というよりも、
たった数人の「個人」の意志によって引き起こされてるようにも見えること。
世界の命運がわずか数人の感情によって左右されるなんて…
なにか間違ってる、うまく言えないけど、おかしい。ですよね。

そんなこと思いながら過ごす毎日ですが、
土星の衛星のエンケラドスのニュースにドキドキしました。
氷で覆われたこの衛星の地下には水が存在しているというのは知られていましたが、
地表に吹き出る水柱の中に水素が含まれているのがわかったらしいです。

詳しいことはよくわからないけど、水素の存在は、
原始的な生命の存在の可能性を示すものだとか。
地球外生命体が、意外と近いところに存在するのかもしれない、
なんだかスカッとするニュースでした。

しかし、もしもエンケラドスに生命が存在し、
それがやがて知性を持ち、文明が生まれ、科学が発展したとしても、
もしかして、それが地球と同じように戦争と殺戮の歴史を刻むのだとしたら…
そう考えると、複雑な心境です。

夢のあるニュースなのに、
どこか悲観的な見方をしている自分がいる。

ともかく、 何がなんでも、平和であってほしい。
戦争だけは回避してほしい。ほんとそれだけです。

こんなこと書くつもりじゃなかったけど、
なんとなくこんなブログになってしまいました。
また書きます。今夜は雨らしいですね。






当たり前だけど1週間ぶりの土曜日

毎度のことではありますが、
公演が終わった直後はなんだかボンヤリした空虚な時間が続き、
何をしていても足が地面から20センチくらい浮き上がってる気分。
そんな1週間でした。

昨夜、小山内君とラーメン食べながら今回の芝居のことを話し、
それでようやく「。」を打った感じ。

久しぶりに戻った世の中は、以前と同じ。
早朝のホームは寒いし、手術室は血だらけだし、
呼んでない本は積み上げられたままだし、
仕事のメールは放置されたままだし、
足の傷は今だに痛いし。

この痛みと早く仲良くなれればいいのだけど、
なかなかうまくいかない。折り合いが悪い。

おいら「なかなかキミに慣れないよ」
足の傷「ぼくの痛みのことかい? まあ、少しずつ悪化してるからね」
おいら「そのうち痛みに慣れてくると思ったんだけどな」
足の傷「慣れるって、つまり、気にならなくなるってことかな?」
おいら「そういうこと」
足の傷「本当にそんなことがあると思う?」
おいら「思っちゃマズイ?」
足の傷「多分キミは今までも、そうやって、いろんな傷の痛みに慣れようとして、
失敗してきたんだろうな。慣れるわけないってことに、早く気づくべきだったね」
おいら「……そっか」
足の傷「早く治してくれないかな……」

今朝は早起きして『カルテット』の最終回を見てました。2回目。
テレビのドラマを録画してまで見るなんて多分生まれて初めてです。
テレビサイズで「ザ・演技!」みたいなのを見るのが、どうもダメで苦手で、
今までドラマ見ない人だったけど、『カルテット』は珍しく見てました。

世間でいろいろ評判になってるドラマですが、
松たか子の過去や4人の恋愛関係はさておき、
ずっと気になっていた「隠れテーマ」みたいなものがあります。

ここから先はネタバレもあるので
最終回を見てない人は読まないほうがいいかもですが。

それは「趣味」と「夢」の話。
好きなことをうまく「趣味」にできた人は幸せだけど、
「夢」にしてしまった人は悲劇である、みたいな。
ドラマの中では「キリギリスになる」と表現されてましたね。
最終回では、このテーマについても触れられていました。

正直、これは少しぼくの胸に突き刺さってきました。
そして、この4人が悩んだのを同じ悩みを、
ぼくも人生の中で何度か経験してきたなあ、と。

画家になる夢を抱いて東京に出てきたけれど挫折。
作家になる夢を抱いたけどそれも挫折。
挫折するたびに人生が道を変えて、今に至る。

そして今は、演劇というものと向き合い、
「趣味」なのか「夢」なのか判然としないままで、
でもひたすら「いいものを創りたい」という熱意だけで進んでいる。

早く自分の才能の無さを自覚し、
「夢」を諦め「趣味」と割り切ることができる人は、ある意味、幸福。
しかし、「夢」だと決めて、それに立ち向かってキリギリスを続けることも、
それはそれで幸福なのだと思える。

最期、死ぬ瞬間に「ああ面白かった!」と思いたいから、
だから今は「趣味ではなく、夢だ」と思いながら、芝居を作っています。
少しでも少しでも少しでも、いいものを創りたい、
やる以上はベストを目指したい、
たとえそれが、はかない夢であったとしても。

しかしそれは、同時に、「何か」を失うことでもある。
それはもう、十分にわかってる。
20代の頃ならまだしも、この年齢になれば、
それがどういうことか、イヤというほどわかってる。
わかってるけど、それでもなお、あえて。

そんなぼくは、『カルテット』の主人公たちが、
「趣味か、夢か」で悩み、語り合う場面を、
とても複雑な思いで見ていました。

まあ、そんなこともあって、このドラマ熱心に見てました。
タイムリーでした、ぼくにとって。
この週末は、すこし考え事でもしましょうかね。

まずその前にシャワー浴びます、
昨夜はソファで寝てしまいました。












NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

TheaterNautilus

Author:TheaterNautilus
シアターノーチラス代表によるブログです。
前向きに更新します。

最新記事

リンク

このブログをリンクに追加する

月別アーカイブ

最新コメント

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示