2017-10

歴史の教科書の中の1行

広島の平和記念式典をなんとなくテレビで眺めていました。
今はまだ原爆投下の日を覚えている人、
その被爆者や被爆者2世が存命しているけれど、
原爆のことをナマの記憶として持っている人がやがて誰もいなくなる、
という時代がやってきたら、一体どうなるのだろう。

原爆投下という事実が、たとえば「関ヶ原の戦い」とか「鎌倉幕府成立」とか、
そういう歴史の教科書の中の1行になってしまう時代が、
そのうちやってくるのだろうか。

もしそんな時代がやってくるのだとしたら、
その時、世界はどんなふうになってるのだろう。
そんな時代になっても、それでもまだ核兵器の脅威について
未来の人々に十分に知らしめるための準備を、
そろそろ始めてもよい時期なんじゃないの?などとも思います。

なんせ人間は、同じ過ちを平気で何度も繰り返す生き物だから。
そんなこと思いながら、黒澤明の『生きものの記録』のことなど思い出してます。
あれは、第二次世界大戦が終わったあとの時代の物語だけど、
あれをたとえば、「今から100年後の物語」と言い換えても、
やはりあの映画は成り立つんじゃないか?

話は飛躍しますが、なぜ第一次世界大戦という呼び方が生まれたのだろう。
ふと思いました。素朴な疑問です。

第一次世界大戦の真っ最中にその呼び方が生まれたとは思えない。
もし真っ最中にその呼び方が始まったのだとしたら、
その時すでに「第二次もいつか起こる」と予期されていたということ?

それとも第二次世界大戦が起こったときに、
「思い返せば、あれは第一次世界大戦だったなあ。
そして今まさに第二次世界大戦が起こってるんだなあ」ということ?

第一次、第二次ときたから、当然、次は第三次、ということになり、
人間は、なんとかしてそれだけは避けようと努力してる。
でも、第一次、第二次、という呼び方の中に、すでに、
「人間は同じ過ちを繰り返す」という苦い思いがこめられている気もする。

たとえは、もしも第一次世界大戦を「大欧州戦争」とか、
第二次世界大戦を「太平洋および欧州戦争」とか、
そんな名前で呼んでいたら、世界はもしかしたら変わったかも。

第一次・第二次という呼び方が当たり前になっているその事実に、
人間の『後戻りできない業の深さ』がひそんでる。
言いかえれば、人間が人間に仕掛けた数字の罠、みたいな。

なんて書いてますが、これはべつに悲観的な話ではなく、
実際に起こったことが、ただの教科書の中の1行になってしまう前に、
なんとかしなきゃならないことがたくさんあるんじゃないの?という話です。
8月6日なので、こんなブログです。

さて、『ミニチュア』の稽古が始まっています。
例によって、机の前に座って台本を読むというのが苦手なので、
2回目の稽古から早くも机を片づけて、立って読んでます。

芝居は立体的に見ないと、頭や体に入ってこない。
役者のほうも、言葉と声と体とがすべて一体化したとき、
初めて「役」とか「芝居」とかをつかみ始めるのだと思います。

とてもおだやかで、でも意欲的で、居心地のいい座組みです。
まだ配役が決まっていなくて、いろんな役を回しながら読んでいますが、
「今この人は、この芝居をこんなふうにとらえているな」というビジョンが、
はっきり伝わってくる、それがすごく面白い。

そして、そういう座組みの空気が、今回の脚本には
とてもマッチしている気がします。

猛暑が続く中、ぼくたちは良いスタートを切りました。

初日は、9月23日。





スポンサーサイト

● COMMENT FORM ●


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://theaternautilus.blog99.fc2.com/tb.php/1107-f164806c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

NEW ENTRY «  | BLOG TOP |  » OLD ENTRY

プロフィール

TheaterNautilus

Author:TheaterNautilus
シアターノーチラス代表によるブログです。
前向きに更新します。

最新記事

リンク

このブログをリンクに追加する

月別アーカイブ

最新コメント

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示