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2019-05

大聖堂を描く

なんだか最近ずっと野菜不足を自覚しておりまして、
毎日のように野菜炒めを作ってます。

まないたの上で人参やピーマンを切る音、
油をひいた熱いフライパンの上に野菜を入れたときのジュワッという音、
ああ、これぞまさに、生活の音、暮らしの音じゃないか?

この音の中にさえ、ビタミンがたっぷり含まれている。
音を聴いてるだけで、血液がドクドクしてくる。ビバ野菜炒め。

ビタミンといえば、ちょっとくたびれた時や、へこたれそうになった時、
これを読めば元気になる、というビタミン本が何冊かある中で、
とくにお気に入りなのはレイモンド・カーヴァーの短編集。
だから、いつも目立つところに置いてある。

その中で、たまに読み返す短編のひとつに『大聖堂』というのがあります。

短編だから、話は単純。
ある男が、盲目の男と深夜テレビを観ている。あ、盲目の男は「聞いてる」だけですが。
画面には、たまたま大聖堂の映像が流れている。
で、男が盲目の男に「あなたは大聖堂というものがどんなものか知ってるか?」と尋ねる。
盲目の男は、もちろん、大聖堂というものを見たことがない。
それをきっかけにして、男は、大聖堂とはどんなものかを盲目の男に教えるために、
ふたりで1本のペンを手にして、ふたりで大聖堂の絵を描くことになる…。

「見える」ということが当たり前の人間には、「見えない」とはどういうことなのか、
なかなか想像できない。ましてや、そこに信仰心とか愛とかがからんでくると、
たとえば「見えないものを愛せるのか」とか「見たことのないものを信じられるのか」なんて
そんなことも、ちょっと考えてしまいます。

誰かに、愛や信仰心には形は関係ない、見えるか見えないかは関係ない、と言われれば、
なんだかそんな気もするし、でも、それを100%鵜呑みにもできない。

まあ、読むたびに、あれこれ浮かんでくる不思議な短編です。

で、最近、これを読むと、「芝居を創るということも、もしかしたら似てる?」
などと考えてしまいます。
どんな芝居ができるのか、その完成形は誰も見たことがない、
しかし、そのたどり着く形を模索して演出と役者とがあれこれ苦闘するのは、
なんだか、大聖堂の形を伝えるために一緒にペンを握って大聖堂を描くことと、
どこかでつながってるような……

ペンの動きを「導くもの」と「導かれるもの」の関係。
「導くもの」は、けっしてその描き方がはっきりわかってるわけじゃない、
ペン先は、かなりふらついている。それでも、ガシガシと動こうとする。
「導かれるもの」も、すべてを相手に任せてるわけじゃない、自分の意思がある。
自分が思い描く方に進みたくて、力の加減をあれこれ変えてみる。

両者の思いが、どんな絵を完成させるのか?

これって、芝居が創り上げられていくのに、なんだか似てないか?
…なんて、最近読み返しながら、ちょっと考えていた。

何だろうね、次の稽古が楽しみです。

さて、『庭』の詳細も告知されました。
僕たちは僕たちの大聖堂を築きます。






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TheaterNautilus

Author:TheaterNautilus
シアターノーチラス代表・今村幸市によるブログです。
年に2~3回、オリジナルの脚本による芝居を上演しています。
次回公演は2018年10月です。
http://theaternautilus.
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