2017-11

同義語

冷蔵庫のブーンという音を聞くたびに、
この世界には完全な静寂というものは存在しないのか?
と思います。冷蔵庫ってうるさい機械だなー。
でもって、こういう人っているよね、いつもブーンて。

さて、1年に1回くらい必ず読み返す小説がいくつかあります。
今日は吉田和子『お供え』を読み返してました。もう何回目?
何度も読み返したくなる小説って、なぜなんだろう?

眠い頭で仕事しながら考えていたのですが、
やはり思うのは「魅力的な謎」を読みたいのだ、
答えが欲しいわけじゃない、正解はいらない、
大事なのは問いかけのほう、謎のほう。

あ、そうか、小説も映画も芝居も何でも、
「答え」を提示するものではなく「問いかけ」を表現するものだ。
あー、なるほど、そうか。

たとえばプッツアーティの『神を見た犬』にしても、
坂口安吾の『白痴』にしても、三島の『真夏の死』にしても、
何度も読みたくなるのは「魅力的な謎」。

「正解」を確認したくて読むのではなく、
「あらためてもう1度問い直そう」という気持ちで読み返しているのだ。
あー、きっとそうだ、なるほどなるほど。

朝の眠い目をこすりながら『お供え』を読んで、
久しぶりに「問い直したもの」。それは何だったのか?

きっと生きるというのは、人生のいうのは、
「問いかけ」の連続なんだね、だからだね。
だから「魅力的な謎」を手放すことができないのだ。
それは人生というものを手放せないのと同じように。

てことは、「人生」と「魅力的な謎」というのは同義語?

……なんてなことを考えていた1日でした。





次回公演の情報解禁です

誰かの顔色をうかがうでもなく、何かに媚びるでもなく、
やりたいことをやろう、後悔しないために。

そんな気分の2017年9月20日、
次回公演の情報解禁となりました。

今日という日は、たった1回だけ。
人生も、やっぱり1回だけ。



シアターノーチラス♯24

『月はゆっくり歩く』

作・演出■今村幸市
2017年11月23日(木)~28日(火)

きみに見えるものが、ぼくには見えない。
ぼくに見えるものが、きみには見えない。
それでも一緒に生きていくのだとしたら。

■cast
北村とうこ
鈴木響
竹田真季
山岸香菜
渡辺航
石田茜子
小玉賢太

■staff
作・演出/今村幸市
照明・音響/studio205
美術/螺旋天国
宣伝美術/高尾静(空空-karakara-)
WEBデザイン/三上真由・木村香織
企画・制作/シアターノーチラス
■ticket
前売り・当日/2000円
■time table
2017年11月23日(木)~28日(火)
23日(木)         19:00
24日(金) 13:00     19:00
25日(土) 13:00     18:00
26日(日) 14:00     18:00
27日(月) 14:30     19:00
28日(火) 14:30     19:00
*受付開始は開演の45分前、開場は開演の30分前になります。
 なお、上演時間は90分の予定です。
■カルテットオンライン
https://www.quartet-online.net/ticket/nautilus24
■メール予約
theaternautilus.2007@gmail.com
■新宿眼科画廊(東京都新宿区新宿5-18-11地下/
東京メトロ・都営新宿線 新宿三丁目駅より徒歩7分、
JR・地下鉄私鉄各線新宿駅より徒歩12分)

新宿眼科画廊で待っております。







ゆっくり、ゆったり

毎日いろいろなことが起こります。
昨日は楽しかった職場が今日はすごく居心地悪かったり(笑)。
アップダウンの激しい自分と生活。
でも1日の終わり頃には、ふと思い返す。
「あんなにあれこれあったけど、過ぎてしまえば、おだやかな1日だった」
何があっても、少し距離を置くと、小さな振り幅でしかない。
ま、そんな日もあるよね、で終わらせてしまえる。

それでいいや、そうしよう。明日が楽しみ。

ここ10年くらい、なんか激しい日々だったせいか、
今になってみると、ホンワカした気分でいたいと思います。
大きなアップダウンに見えることも、1日の終わりには帳消しです。

満員電車に乗るのがイヤで、毎朝、早く家を出ます。
「その時間には絶対に出なきゃならない」というのと、
「そんなに早く出なくてもいいけど、自分の自由意志で早く出る」とでは、
気分がまったく違います。義務ではないって、なんて気分いいんだろう!

誰もいないベンチでコーヒー飲みながら本を読む早朝の時間が、
とてもゼイタクです。とてもいい1日の助走。
仕事はハードですが、頭の中で、
「これをやり続ければ、これからも芝居を続けることができる」
そう思うと、なんかがむしゃらに頑張れます。単純です。

「芝居のため」というのを、すべての言い訳にしてる今は、
それはそれで幸せだけど、いつか芝居を辞めることになったら、
そのときは何を理由にして生きていけばいいのだろう、
そんな不安も頭の中のどこかにあります。
あるけど、ま、先のことは先のこと、その時に考えよう。

逆に、もしも今、芝居をやってなかったら自分は何をしていただろう。
そう思うと、なぜかゾッとする。何も思いつかないから。
このゾッとする感じ、わかってもらえますか。

井上陽水の古い曲に『人生が2度あれば』というのがあります。
老いた両親の姿を見ながら「もしも人生が2度あれば」とつぶやく息子。
もしも2度目の人生があれば、人は1度目とは全然違う人生を生きる?
それとも、気がつけば1度目と同じ人生を生きている?
どっちなんだろうな。
最近よく考えます。

それは、次の芝居『月はゆっくり歩く』が、
どこかでそんな感情とつながってるからかもしれません。
もうひとつの人生、もうひとつの世界。

「月」が象徴するものを、頭の中でこねくりまわしながら
脚本を書いています。

ちなみに、書きながらよく聴いてるのは坂本九。
『上を向いて歩こう』や『見上げてごらん夜の星を』などなど。
それに井上陽水も。『最後のニュース』とかね。

いろんなことがあった1日。
でも、何千日、何万日の中の、その、ほんの1日。
いろんなことがあったように思えるけど、
じつは、なんにもなかった1日。

1日の最後には、だれかと、ささやき声で会話を交わして、
それからゆっくり眠りたい。

『月はゆっくり歩く』
ぼくたちも、ゆっくり。









物語

やっとケン・リュウの第二短編集を手に入れて、
うーん、なるほど、なんて思いながら少しずつ読んでます。

とっくの昔から有名な、世間的にはみんなおなじみの作家でも、
自分の人生の、どの時点で出会うかによって、意味が全然違ってくる。

たとえばケリー・リンクやミルハウザーに出会ったのも、
自分にとってはとても良いタイミングだったと思うのですが、
ケン・リュウが話題になった時期が、たまたま「今」だったというのは、
もしかしたら、とても大切な幸運だったのかもしれない、なんてね。

人は、どうして「物語」に惹かれるのだろう、と思います。
自分の人生という、かけがえのない物語を生きているのに、
それとは別に、さらに「物語」を求めて本や映画や芝居と向き合う。
どうしてこんなにも「物語」にこだわるのだろう。

たとえばケン・リュウの小説を読んでいると、
「美しい物語」とは本当に美しいものだ、なんて当たり前のことを、
今さらのように思い返します。

そういえば大学時代にたくさん読んで、
そして今になってあらためて読み返している三島由紀夫や安部公房は、
ただただ、その物語の美しさをすくいとりたくて読み返します。
残念ながら、なかなかうまく、すくいとれませんが。

この、けったくそ悪い、ムカつく人生を生きてる自分の「物語」ではなく、
なにかもっと違う美しさを、そこに求めたい。
いや、別jに、きれいに、清らかに、平穏に、そんなふうに生きたい、とか、
そういうんじゃない、もっと純粋に「物語」という、
生命の結晶みたいなものに触れてみたい、
その、生きる上での本能というか、宿命みたいなもの。
美しい物語に出会ったとき、そんなものを感じます。

いや、ケン・リュウの小説だって、原文で読んでるわけじゃない、
翻訳者のすばらしさもあるのでしょう、
でも、そういうものを超えた、物語の結晶部分の美しさ。

うーん、なんか、うまく書けないな。
書けないのはわかってました、書く前から。
でも、なんか書いておこうと思った。
次回作の脚本を書いてますが、
書きながら、美しい物語を残したいと思ってます。
生命を抽出するような感じ、そんな感じです。

ぼくたちの世界に「物語」というものが存在していて本当によかった、
そう思います。








夢で食べたキウイの味

最近、芝居の夢をよく見ます。
さっきも小屋入りした日の夢をみて目が覚めました。
明日が初日、役者たちが忙しく準備をしている、
それをずっと見てまわっている自分。
どういうわけかキウイをたくさん使う芝居で、
舞台の袖で女優さんが大量のキウイの皮をむいている。
つまみ食いしたキウイの酸っぱさが今も口の中に残っています。

ぼくは、あと何本、芝居を作ることができるのだろう、
よくそのことを考えます。だから夢を見るんだろうか。
これから先、いくつの脚本を書き、稽古をし、
役者さんたちを本番の舞台に送り出すのだろう。
あと何本? 残りは何本?

10年前に渡辺大介君と知り合ったとき、彼は、
「ぼくはこれからの人生で100本の芝居に出演しますよ」と宣言し、
ひとつの公演が終わるたびに、「ああ、あと残り●本か」と寂しがっていた。
そのときは苦笑して聞いていたけど、
今は自分自身があのときの渡辺大介君みたいな心境です。
「あと何本なんだろう、あと何本、作らせてくれるのだろう、神様は」。

そして、何かの理由で、何かの事情で、芝居を作れなくなったとき、
そのとき、ぼくはどうするのだろう、
どうしても芝居を辞めざるをえなくなったとき、
そのあと自分はどうするのだろう、何が待っているのだろう。

芝居をすることで呼吸しているような毎日なのだから、
その芝居が出来なくなってしまったら、もう呼吸をやめてしまうようなもので、
そのあとの自分を想像できない、というか想像するのが怖い、恐ろしい。

あ、今、呼吸してる、吸う息と吐く息とを、今、すごく自覚しています。

最近読んだ小池真理子の短編、タイトルは忘れたけど、
ある夫婦の話があります。ごくふつうの平凡な夫婦、どちらも晩婚だけど、
とくに大きな出来事もなく、穏やかな、とても満ち足りた幸せな日々を送っていた。
ところが夫のほうが、病気で死ぬ。まったく突然に訪れた死。
あまりにも突然過ぎて、夫自身、自分が死んだことに気づていない。
気づいていないから、ときどき家に帰ってくる。仕事から帰ってくるようにして。
妻は夫の好物を準備して迎える。ごく普通に、当たり前のように。
なにげない会話をしながら、妻は夫が自分が死んだことに気づかないよう祈る。
悲しみをこらえながら、夫となにげない会話を続ける妻。

短いけれど、とても切ない話です。
自分が死んだことに気がつかないで、ふつうの日常生活を送り続ける、
そんなことが起こるはずはないのだが、いや、もしかしたら、
「起こるはずがない」と勝手に信じているだけで、
じつは、ふつうに起こっていることかもしれない。

ぼくたちの周囲には、もしかしたら、
自分が死んだことに気づかないで、ふつうの日常生活を送り続けている人が、
じつはたくさんいるのかもしれない……などと思ったりもしました。

道ですれ違った人が、電車で目の前に立ってる人が、
じつはもう死んでいるのに、それに気づいてない人で、
周囲の人も、気づかせないように、そっと大切に接している、
そんなことが、じつはごく当たり前のように起こっている。

世の中に「生」と「死」とがそんなふうに混在していたら、
それはそれで、なんだかありがたいというか、なんというか……

もしぼくが死んでも、周囲の人がそれを気づかせないで、
まるでぼくが生きているかのように振る舞って。
稽古場に集まり、稽古をして、本番を迎えて、
打ち上げで、また夢を語り、次の公演のことを話し……
そんなことが永遠に続いたら、どんなに楽しいだろう。
楽しくて、悲しい。

夢で食べたキウイの味が、まだ口の中に残っています。






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