2017-04

重力、終わりました

昨夜バラシの後に運んで部屋に放り込んでおいた荷物たちを、
朝早くから片づけて片づけて片づけて、
ようやく、ふだんどおりの部屋に戻りました。

こんな朝を今まで何度も何度も経験して、
これからも、また何度も経験するんだなあと思いながら、
コーヒーを飲んでいます。
最後の1枚のペーパーフィルター、最後の貴重なコーヒー。

『うつろな重力』にお越しいただいた皆様、
いろいろな形で支えていただいた皆様、
RAFTの皆様、本当にありがとうございました。
お陰さまで無事に幕を下ろすことができました。

終わってしまった芝居のことをあれこれ語ることはしません、
今はただ、観ていただいた方、そして演じていただいた方、
関わっていただいたすべての方の気持ちの中に、
小さな重力が生まれていたらいいなと思います。

いろんなことを言われながらも、
ぼくはこれからもずっと死ぬまで、
「人間」というものと向き合いながら芝居作っていきます。

一緒にやろうと言ってくれる人もいれば、
遠ざかっていく人もいる、
風が吹く向きを確かめるような気持ちでそれを眺めながら、
大切だと思うことをやっていけたらいいなと思います。

ひとつの芝居が終わるたびに、
そんな感じで、足元の道を確かめます。
コーヒーもう1杯、と思ったけど、フィルターが無いんだった……

次は7月です。










両足

柄本明のファミリーヒストリー見てたらブログ書きたくなりました。
さっきワケあって昭和時代の事件史をネットで調べていたのだけど、
柄本明の番組に戦中戦後の古い映像が出てきて、
なんだかしみじみした気分になりました。
今は、なぜかむしょうに中森明菜が聴きたい。

中森明菜は、どんな歌詞の曲であっても、
すべて「一人称」にしてしまう。それが、いいね。

そういえば中森明菜の不幸な感じが好きと言っていたのは、
石倉さんでした。河童三兄弟の。なるほど。

中森明菜の『サンドベージュ』は劇団離風霊船の芝居を観て以来、
ぼくにとって「昭和」を象徴する歌のひとつです。
日航機墜落事故を題材にした『赤い鳥逃げた』は衝撃だった。
ねえ、あんな芝居をやりたくないか?????
いつかやろうよ、絶対に、書くからさ、絶対に書くよ。

『うつろな重力』の本番まで2週間あまり。
いよいよ勝負という感じでなんだか緊張しまくってます。
と同時に、7月公演の企画をまとめるという作業も進行中。
『うつろな重力』とはまったく異なる芝居にしたい。

最初のセリフを書いてみたりしています。
最初の長ゼリフが、砂漠に落とした1滴の水みたいな感じになって、
そこから物語が広がる……はずなんですがねえ……

そう言えば『うつろな重力』は、まず最初にラストシーンを書きました。
ここに向かって物語が収斂していく、その終着点。

最初の点か、最後の点か、
どっちにしても、ひとつの小さな点が物語を生み出すのです。

さて、栄養不足と睡眠不足ですこぶる体調が悪い。
朝起きると、頭の中が真っ白で立ちくらみの連続です。
でもね、ズタズタになるまでやらなきゃ、とも思うのです。
まだまだ全然です、ほんと、まだまだ。自分を壊さなきゃ。

何やってるんだろう、おれ。
そんな気分で、ぼんやり立ちすくんでます。




この幸せ

仕事の用事や役所に行く用事や故郷にメールする用事や、
あれこれたくさんあるのはわかってるけど、
病院仕事から帰ってきたら、まずは睡眠不足を解消する。
すまん、とりあえず眠らせてくれ。
今日は阿佐ヶ谷駅のエスカレーターで突っ立ったまま寝そうになったぜ。

てなわけで少し頭がスッキリしました。
10feea聴きながら部屋を片付けて、少し命が吹き返る。
へえ、39光年の彼方に生物がいそうな星が見つかったらしいね。
ナントカ星人は、今ごろ何してるんだろうな。
何でもいいから、信号を送ってくれ、おいらの寝ぼけた頭に。

とりあえず伝えたいのは、「ゆで卵を食べたい」ということ。
山ほど食べたい。まっ白なゆで卵。黙々と。次々と。
『夢みるように眠りたい』という映画の中で佐野史郎演じる探偵が、
なにかというとゆで卵を食べていた。というか、
ゆで卵しか食べていなかった。そう、あんな感じ。

あ、鈴木清順監督が亡くなったと今朝のニュースでいってた。
『ツイゴイネルワイゼン』よりも『陽炎座』のほうが好きだったけど、
ひとつ確かなことは、
ああいう映画を作る人はもうこの世に誰もいなくなったということ。
その事実を、いかにして受け止めるべきなのか?

とりあえず今、阿佐ヶ谷パール街を歩きながら、すれ違う人たちに、
「ゆで卵製造機はどこに売ってますか?」
「ゆで卵製造機が欲しいのです」
「ゆで卵製造機のこと何でもいいので教えてください」
と尋ねまくることから始めようか。ふむ。

あ、映画といえば、『ふきげんな過去』なかなかよかったです。
前田司郎の。小泉今日子の。二階堂ふみの。
で、ネットでこの映画のことをバカにしてる人が結構いて、
ああ、やれやれ……と思うよりも、なぜかムラムラとやる気が出ました。
とりあえず五反田団の芝居が観たい。

あとね、『砂の女』の映画が観たい。しかし調べてみたらDVDになってないらしい。
あちゃー。こういうもんかね。砂の女を岸田今日子が演じているのです。
脚本は安部公房自身。高円寺のドラマ館にないかな。
じつは先日、会員証作ったのです。古い映画があれこれあるから。

さて、いろいろ書きたいことはあるのですが(嘘です)、
昨夜、最初の通し稽古をしたら、上演時間が予定をオーバー。
少し脚本を手直し。いや、短くするのはいつも大歓迎。
少し長めに書く→それを短くして引き締める

ひとつ確かなことは、『うつろな重力』は、
自分でとても好きな芝居になりそうだということです。
そして、自分で好きな芝居をお客様に観ていただくというのは、
とてもとても楽しみなこと。

けなされても、バカにされても、なんとも思わない、
さあ、ともかく観てください、
胸張って、そう言える芝居があるという、この幸せ。






今日も電気羊の夢を見ながら

「うつろな重力」の稽古は着々と進んでいます。
着々と、というのは、けっして「何の問題もなく、滞りなく、スイスイと」ではなく、
みんな悩み苦しみ戸惑い頭かかえて……という意味。
ちなみに、今回は役者として出演する僕自身も、そのうちのひとりです。
「ああ、これが役者の苦悩なんだね」などと初めて体験する感覚が
とても新鮮な毎日。正直「やってよかっ」と思っています。

それにしても、自分とは別の人間を演じるということは、
こんなにも大変なことなんだねえ、と思いながら、
頭の片隅で最近よく考えるのは、フィリップ・K・ディックの、
『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』という小説のことです。

映画『ブレードランナー』の原作本ですが、
遠い星の植民地からアンドロイド8体が反乱を起こして逃亡し、地球に侵入、
警察に雇われたハンターがそれを殺していくという物語。

このアンドロイドの造形が面白いのです。
見た目は人間とまったく同じなので、外見では見分けがつかない。
しかし、それだけではない。
アンドロイドには「作られた記憶」が埋め込まれている。
生まれてから今までのすべての記憶、それは「ひとりの人間としての記憶」。

つまり、あるアンドロイドに子供の頃のことや両親のことを質問すると、
ふつうの人間と同じように、それを思い出し、語ってくれる。
そのアンドロイドはそれが「作られた記憶」とは思ってない、
自分の本当の記憶だと信じている、そしてそれが根拠となって、
「自分は人間なのだ」と信じ込んでいる。

周囲の人間も、アンドロイドがふつうに昔話や家族の話をするので、
まさかアンドロイドだとは気づかない。
なかなか斬新なこの設定、これがじつはこの小説の悲劇の原因になります。

でもって、ふと考えてみれば、
役者が役を演じるというのも、じつはちょっとこれに似てる気がします。
役を役たらしめているのは、その脚本の中だけの話ではない、
その役の人間が生まれてから今まで生きてきたすべての時間を背負って、
その役者は舞台の上に立つわけです。

言い換えれば、別の人間の記憶、造形された記憶、
それをいかに精緻に思い描けるか?
そこに「役を演じる」ことの面白さがあるのだと思います。

物語には直接関係なくても、どんな家庭に生まれ、どんな家族に囲まれ、
どんな経験をして、どんな幸福や不幸を味わって、そしてそこにいるのか。
それを一から創造して、役者はそこに立つ。
そしてそれらの記憶、それらの時間が、今、新たな物語を生み出していく。
それが「芝居」という形になるわけです。

芝居そのものは、せいぜい1時間半か2時間ですが、
しかしそこにいる人間たちは、今まで生きてきた何十年かの時間を背負っている、
そのことを表現できるかどうかが、役者というものの快楽ではないか?
ディックの小説を思うたびに、そんなことを考えます。

ちなみにアンドロイドたちが反乱を起こした理由は、
外見的にも内面的にも人間とまったく同じ彼らが、
じつは人工物であるためにいつか寿命が来てストップしてしまう、
という事実を知ったこと。その残酷な事実が彼らを狂わせます。

役者もまた、最後の上演が終わり、2度とその役を演じることがなくなる時、
狂おしいほどの寂しさと虚しさを味わってほしい。
そう思うのは、作・演出としての僕のわがままですかね。

いやいや、この公演が終わったとき、自分がどう感じるか、
それも今から楽しみです。

そんなことを思いながら、本日も稽古。
初日は3月15日。チケットは絶賛発売中ですよ。







茫洋とした場所

「何か食べたいのだけど何を食べたいのか自分でもよくわからない」
という時の気分は、
「コンビニで明らかに一人分の食料を買ってる人を見ると、
『よかったらうちで一緒に映画でも見ませんか』と誘いたくなる」
という時の気分と、どこか似ている。

なんとなく茫洋とした感じ、つかみどころのない感じ、
ポツンとひとりで、何もない空間に放り出されたような感じ、
そんな感じ、そんな感じ、そんな感じ。

そんな感じになると、なんだかひどく「東京っぽいなあ」とも思う。
そうなのです、これ、東京っぽい感覚。そう思いませんか?

さて、ある劇団の名前を挙げて、
「今村さんが向かってる方向は、多分この劇団が向かってるのと、
同じ方向だと思うんです、だから絶対に見たほうがいいですよ」
と言われるのは、全然ありがたいことだし、うれしいと思います。

と同時に思うのは、「あ、ぼくは、どこかに向かって進んでるように見えるんだ」てこと。
それはちょっと不思議です。べつに本人は、
「どこかに向かってるわけではない、明確な方向や目的地があるわけではない」
と思っているからです。だから、そんなふうに言われたら、逆にその人に、
「あのー、ぼくは、どこに向かってるんでしょうか?」と聞きたくなる。
知ってたら、教えてください。

どこかの街角や駅前や交差点に立って世界を見ていると、
大勢の人たちが歩いたり走ったりしている。それはつまり、
そこにいる人間の数だけ、方向や目的地があるということでもある。

すごいな、方向や目的地というものは、この世に無限に存在するのか?
すごいな、そう考えると、すごいな。

いや、目の前の人の群れの中には、ひとりかふたりくらいは、
「方向も目的地も持たない人」がいるかもしれない。
それを見分ける方法はないのだろうか?

「あ、今のあの人、目的地ナシで歩いてる!」みたいにピンとくる方法。
ないのかな? いや、まあ、あったところで、べつにどうもしないけど。

でも、その方向も目的地も持たない人というのが、
もしかして、この僕だったら?
うーん、戦慄。

いかん、眠くなってきた。ソファで横になろう。
そして夜中に起きて脚本を書く。

ぼくたちは、なんと茫洋とした世界に生きているのだろう。





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